例会開催は、毎週水曜日0時より開催となっております。
下記の皆様よりニコニコボックスを頂きました。
信州友愛RC 大嶋三紀夫君
「堀川幹事、卓話有難うございました。」
信州友愛RC 金児進君
「そろそろ三寒四温という言葉がぴったりくる季節になってきましたね。
当クラブのメインイベントが6月26日(土曜日)に「クラブ認証状伝達式」が挙行されることが決まりました。大嶋実行委員長のもとで結束して成功させましょう!」
信州友愛RCRC 市川誠様
「堀川様 会員卓話ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。古川IPG様 "ロータリーの友"のポールハリスとロータリーの歴史コミックについての情報をいただき ありがとうございました。」
信州友愛RC 宮田繁ニ郎君
「毎週勉強になります。感謝!」
茅野ロータリーRC 桑澤一郎様
「よろしくお願いいたします」
信州友愛RC 小池晃君
「堀川幹事さん、卓話ありがとうございました。」
藤森康友様
「奉仕」考
今井芳明
私がロータリアンになったのは今から約30年ほど前ですが、10年ほどたったころロータリークラブ
RCの活動目的が「奉仕」であることに疑問を感じた。何故かというと、RCを創設したポール・ハリス等4人の仲間がクラブを創設したときの目的は、奉仕とは180度異なるものであったからです。
彼らの目的は自己研鑽であり、自己啓発であり、さらに自社の利益追求と言った利己主義的な目的だった。「人の役に立つ」と言う奉仕の理念とは対極的な目的で創設されたのです。
それがなぜ、いつから奉奉仕を目的にする団体に変わったのか、不明だったので先輩に尋ねたのですが、回答が得られず、自分で解明しようと試みたのですが、難問でした。
話がちょっとそれますが、偶然にも今年の「ロータリーの友」1月、2月号にこの答えが載っています。連載コミック「ポール・ハリスとロータリー」でこの問題に答えていますので、皆さんぜひご一読ください。ただし、このコミックの中で利己主義的な目的から「世のため、人のため」になる目的に変更してゆくことは書かれているのですが、なぜそれが「奉仕」となったのかがわかりません。
「世のため人のため」になる行動は奉仕でなくともイクラもあります。基金を作って支援金や奨学金を給付する、村ずくり、町ずくりをおこなう、倫理を学んでより道徳的な人間に成長する等たくさんあるのに、なぜ奉仕を選択したのか、そこがわからないので、さらに解明作業を続けた。
この疑問解明にヒントを与えてくれたのは、ある精神科医の著書でした。それは「がん宣告」「余命宣告」を受けた患者の精神状態がどう変化し、どういう行動をとるか、についての統計資料でした。
それによると、宣告を受けた患者は
1)自暴自棄になる、
2)他人の役に立ちたくて行動する。
この2つのタイプに分かれるという。このことを頭において、社会状況や新聞テレビを見ていると、2)に類する情報が非常に多いことに気が付く。少し列挙してみると少し前に実話にもとずいたテレビドラマのなかで、36歳の男性が、余命数週間と診断され「何かやりたいことは?」と質問され「家族みんなの食事を作りたい。」と答え、その日の夕食を家族皆に作って、2日後に亡くなったという。
また小学校5年生の女の子が小児がんになり入院、毎日友達が見舞いに来てくれるある日、母親に訴えた。「みんなが見舞いに来て、私を励ましてくれるのに。私は誰にも何もしてやれない。」その話を母親が友達にしたところ「つらい治療に耐えて先生の言うことをしっかり守って頑張っている姿にみんな励まされている」との返事が返って、それを娘に話したところにっこり笑って「よかった」と答えたという。
これは癌患者の話ではないが、「人の役に立ちたい」と言う人の話として、10年前の東日本大震災の数日後に、現地訪問し、体育館に避難している避難民に白玉のお汁粉を提供していた時、1人の子供が「お代わり頂戴」と要求した。 そうでなくとも待っている避難民全員に行き渡るかどうか、心配な状況であったため「ぼく、1杯で我慢して」と言ったところ、順番を待っていた1人のおばあちゃんが「私の分をその子にあげてください。私も行方不明の人を探したり、けがをしている人を助けたいけど、足腰が悪くて何もできない。私にできることはこれしかない」と訴えたという。
これはある新聞の連載記事だが、「認知症の宝箱」と言うシリーズの中で「認知症の方が最も喜びを表し、生きがいを感じるのは、誰かの役に立ち、それがわかったときです。」と言う。
かの有名なマイクロソフトのビル・ゲイツ氏はあまりにも稼ぎすぎた社長職を53歳でやめ、子供を幼児死から守るために夫人とともに「ビル&メリンダ、ゲイツ基金」を作って「人のため」になっている。
この種の話はきりがないほど多いが、人はある意味で追い詰められたり(がん宣言)思いもよらない事故に会ったり(震災)といった重い経験をした人は、「こんな目にあった私をたすけてほしい」と望むのではなく、「ほかの人の役に立ちたい」との希望が圧倒的に多いのである。
これまでは個人の話をしてきたが、企業でも同じことが言える。企業とは設けることが仕事だから、トヨタでも本田でも松下でも日立でも創業時は、必死で働いて1流の企業となり、稼ぐことだけを考えているが、安定するに従い、慈善事業や福祉事業に精を出す。プロのスポ―ツ選手も同じで、なったばかりのころは技術を身に着けることと収入をあげることに精いっぱいとなるが、1流となるに従い、青少年福祉や疾病予防基金に協力したりしてくる。
こうしたある種の経験をした人の生き方、企業等の社会の現象を見ていると、1つの共通項が見えてくる。人も企業も最初は自分を磨き、成長させるために努力する。そしてある程度目的が達成されたり、思いもよらぬ重い経験をつまされた後、人が求めるものは「人の役に立ちたい」すなわち「奉仕なのである。こう述べると「奉仕」は容易にできるような気がするが、単純に「奉仕をしたい」と言っても、世の中に簡単に受け入れられるものではない。それなりの勉強をし、それなりの経験を積み、それなりの人間にならなければ、奉仕はできないし、させてもらえない。
ちょっと回り道をしたが、私の疑問「利己主義的目的で創設されたRCが、なぜ奉仕を目的に変えたのか」について記します。
人も企業もRCも同じ道程をたどったのではないかと思うに至った。
人も企業もRCも最初は利己的に動くが、時間を経て、または苦しい経験をして、「人の役に立つ」方向へ収斂してゆく。宗教や人種に関係なく人は晩年に向かい「人の役に立つ」ことを共通の目的として生きてゆくのではないか。
RCの目的もその自然の流れに従っただけなのではないか。これが私の結論です。