信州友愛ロータリークラブ 例会
2022年4月6日開会 (通算60回)

例会開催は、毎週水曜日0時より開催となっております。

開会点鐘・歌の斉唱

会長挨拶

皆さん、こんにちは
ここ信州では桜の開花は関東地方と比べると1ヶ月ほど遅くなります。
信州での桜の見頃は4月中旬から下旬ということで桜の名所では一番賑やかになる季節です。
桜の名所といえば伊那高遠の桜。そして小諸懐古園の桜です。
古くから名所として慕われてきた場所にはお城を中心とした周辺に桜が植えられ庶民に安らぎを与えてくれます。

今回はそんな桜の名所として小諸城 小諸懐古園について小諸ロータリークラブ所属の牧野直人様に卓話をいただきます。
牧野様は江戸時代、小諸藩城主牧野家の直系です。
牧野家には小諸の町を江戸時代から現在に至るまでの貴重な歴史の資料があり、多くの方から小諸城の歴史に関する問い合わせが来ております。
そんな懐古園の見どころなどを牧野様に紹介していただきます。

これから桜の花見の季節には小諸懐古園の桜まつりも開催され、見事な枝垂れ桜などが観賞できます。
お花見に小諸の街に足を運んでみたらいかがでしょうか。

 

メークアップ&ニコニコボックス

下記の皆様よりニコニコボックスを頂きました。

信州友愛RC 青木秀樹君
「ウクライナ国民支援のため協力いたします。」

信州友愛RC 大嶋尚志君
「遅くなりましたが、ウクライナ義援金として」

信州友愛RC 小林陽子君
「ロータリーの友3月号をお届け下さりありがとうございました。」

信州友愛RC 乾みゆ紀君
「ウクライナの義援金として、、世界の平和を願います。」

信州友愛RC 古川静男君
「ウクライナへの支援金として寄付します。一日も早く戦争が終結することを願っています。 」

卓話

小諸城址「懐 古 園」 について

牧野 直人様(小諸ロータリークラブ所属)
     小諸城址「懐 古 園」    
                                          資料作成 牧野直人(小諸ロータリークラブ所属) 


小諸城の特色
 
    1、 城下町より低い位置にあり、穴城といわれている。
    2、 幾重にも掘り巡らされた自然の空濠(浅間山の火山灰地が侵食され
   て出来た深い谷の地形をうまく利用して いる)
    3、 自然石を積上げた野面積の石垣。
    4、 大手門から本丸に至るまでに、少なくとも6ヶ所もの枡形があり、
   通路は屈折したり、狭いところや急坂が あり、しかも防備のための5つ
   の城門が続いていた。更に二の丸、南丸、北丸、本丸の石垣から攻撃 出
   来るという形を取る難攻の縄張りとなっている。
   小諸城はいかにも戦国期らしい中世的な遺構と雰囲気をもった城である。
(1) 三 の 門 (国指定の重要文化財)
        元和元年(1615)仙石忠政により創建されたが寛保2年(1742)に寛保の大洪水で流失した。
   (門番があわてて門を閉じた為という)その後、明和2年(1765)牧野康満公の時に再建された。
        二層の城門で、再建当初は入母屋造りであったが、明治中頃、修理で寄せ棟造りに改造。
        両袖の塀に矢狭間(やざま)、銃丸(つつまる)、鉄砲狭間がある戦闘的な城門。
        石垣は自然石の野面積ではなく、1つ1つが加工された切込はぎの石積によって築かれている。
       「懐古園」の額の金文字は16代徳川家達公(15代将軍、慶喜のあとを継いだ16代当主)の筆
   による。
        明治5年小諸城の入札で、三の門は北御牧の小山氏が引き取ったが、大きすぎて千曲川を渡せず、
   懐古神社へ寄贈したため、かっての姿のまま残った。
 
(2) 花 見 櫓 跡
     花見櫓があり、城主の花見が行われた。
 
(3) 牧野康哉公遺徳碑
      第9代小諸藩主、牧野康哉公の碑。
      種痘を領内に普及させたり、子育て法、養老法を領内に施行、西洋砲術の導入、藩学の振興
    等、名君と云われた。
     安政5年(1858)幕府で老中につぐ位置の若年寄に登用され、時の大老、井伊直弼の懐刀
    と呼ばれた。
    文久3年(1863)46歳で死去。次の第10代康済で明治維新を迎えた。
 
(4)水 櫓 跡
      城外から樋で水を引き、水車を使って2階まで水を上げ、落差によりその水を城内に配った
    と云う。
 
(5)二 の 門 跡
         二層の門があり、上層は二の丸と南丸をつなぐ渡り櫓の楼門で、楼上には御朱印(幕府直属の
   公文書類)
   が保管されていた。
         二の門の礎石があるが門は現存しない。
 
(6)二 の 丸 跡
      二の丸の館があった。
      慶長5年(1600)、後の2代将軍徳川秀忠公が関ヶ原の合戦に赴く途中、上田の真田昌幸に
    はばまれ、ここに逗留され(7月18日~8月30日)合戦に間に合わなく家康から大目玉を
    食った。この秀忠軍に当時大胡城主の牧野康成、忠成父子も従軍した。
(7)番 所 跡
 
(8)中 仕 切 門 跡
      城中の境ともいうべき門で、三層多門櫓のあった跡。二層目が南丸と北丸を結ぶ
    渡り櫓の役を果たした。
 
(9)南 丸(左側)
      石垣上に武器庫があったといわれる。
 
(10)北 丸(右側)
      城内の賄い方、台所、食料品の貯蔵、供給、加工の場所として使用されていた。
 
(11)懐 古 園 稲 荷
      越後与板から牧野氏が移封して来た時に赤坂に遷宮された稲荷で、
    昭和4年に富士見台の御城鎮守の稲荷も合祀している。
 
(12)黒門橋(別名 紅葉橋、そろばん橋)
     城の危急の際に何時でも取り外しが出来るように造られた太鼓橋があった。
     この橋の架けてある空濠は小諸城に二つしかない横濠(他は西谷)で、
    人口の濠であるといわれている。
    濠の底まで2丈6尺(約8,5m)あった。現在の橋は昭和61年に復元されたものである。
 
(13)黒 門 跡(別名 一の門)
     現在は市内八幡の正眼院の山門に移築されている。
     本丸入り口にあり、橋、門ともに本丸防御の最後の要の役を果たしている。
    黒塗りであったので黒門と呼ばれていた 。
     慶長17年(1612)仙石秀久の時建築され、薬医門、肘木、梅鉢懸魚等
    創建当時のものを残している。
 
(14)御 駕 篭 台
 
(15)本 丸 跡
   小諸城の中枢、本丸のあった場所。
      ① 政務にかかわる謁見、儀式の領域。
      ② 藩主、家族の居住領域。
      ③ 賄い方、御台所の領域。
      ④ 本丸書院は明治5年、北御牧の小山家に入札払い下げられて現存している。
      ⑤ 本丸入り口にある2本の石標は、小諸藩領の境界に建てられていたもので、
    東は追分の原、西は立科町芦田の笠取峠にあった。
      ○ 懐古神社―明治13年4月本丸跡を懐古神社とし、紅葉ヶ丘に城の鎮守神
    として祀られていた
    天満宮(菅原道真公・天神様)、火魂社(火之加具土命・荒神様)と
    歴代牧野藩主を合祀した。
    毎年4月24、25日が懐古神社の例祭で、この頃桜が満開である。
    昭和62年改築した。
      ○ 懐古園碑―明治14年、旧藩士が建てた。題字は勝海舟の筆。
    撰文は中村正直(幕臣、儒者で、明治に入り東大教授、
    女子高等師範学校校長、貴族院議員を歴任)
           小諸城の歴史、荒れ果てた城址を苦労して整備した思いが刻まれている。
      ○ 垂れ桜(神代桜)―寛永年間、松平因幡守憲良が本丸の館をここに築いた時、
    書院に植えたものといわれ,近年枯死したため2代目が植えられている。
      ○ 鏡石―武田信玄の臣、山本勘助愛用の石と伝えられている。
 
(16)天 守 閣 跡
   この天守閣は依田信蕃が天正10年(1582)に着手し天正13年に子の
   松平康国が竣工したという。
   完成後44年の寛永3年(1626)に落雷を受けて焼失したといわれている。
   その後は一国一城令の幕藩体制強化の為、
   城郭の勝手な修理は許されなかった。
   石垣は自然石を巧みに積上げた野面積で、当時の豪壮さが見られる。
 
(17)馬 場
   桜の馬場といわれ直線の鉄砲馬場であった。
   懐古園は全国桜100選に選ばれた桜の名所で馬場や石垣上に咲く花は見事である。
   又、コモロヤエベニシダレ(小諸市の指定天然記念物)という珍しい種の桜がある。
 
(18)紅 葉 ヶ 丘
   江戸時代は周囲を塀に囲まれ、御城の鎮守神として、天満宮(天神様)と
   火魂社(荒神様)が別々の社に祀られていた。
 
(19)不 開 の 門 跡
   小諸城の搦手(からめて)(背面)にあった冠木門(かぶきもん)で、
   最後の逃げ道として造られた門。
   通常は使用されなかったので不開門(あかずのもん)といわれた。
 
(20)水の手展望台
     右下の深い谷は地獄谷といい、城中で一番深い谷である。
 
(21)富 士 見 台
     御城鎮守として稲荷神社があったが、後に懐古園稲荷に合祀された。
 
(22)大 手 門(別名 四の門、瓦門)国指定の重要文化財
     慶長17年(1612)城主仙石秀久の時に造営された。
     戦国時代を代表する豪壮な構えで青森県弘前城の城門と類似し
    東日本の大手門の双璧。
     通称瓦門といわれ、瓦は三河から馬で運んだという。
    現在の瓦は牧野氏時代に葺き直されたものである。
     平成17年2月より解体、保存修理がなされ、小諸城の大匠棟梁の
    石倉芳隣(ほうりん)が書き残した
    享保5年(1720)修理の記録を参考に、改造時の姿に復元され
    平成20年3月に完成した。
 
(23)足 柄 門 跡
     現在、光岳寺山門に移築されている。
     寛保の大洪水で流失し、明和2年(1765)牧野康満の時に再建された。
     高麗門で切妻には梅鉢縣魚、扉には入八双金具がある。