信州友愛ロータリークラブ 例会
2021年3月24日開会 (通算12回)

例会開催は、毎週水曜日0時より開催となっております。

開会点鐘・歌の斉唱

会長挨拶

ロータリーソング 「手に手つないで」
1.
手に手つないで つくる友の輪   
輪に輪つないで つくる友垣
手に手 輪に輪   
ひろがれまわれ 一つ心に
おおロータリアン   
おおロータリアン
2.
手に手つないで つくる友の輪   
輪に輪つないで つくる友垣
手に手 輪に輪   
ひろがれまわれ 世界とともに
おおロータリアン   
おおロータリアン
皆さん、こんにちは。
信州友愛ロータリークラブのノンストップ例会も元気に続いています。
こうした例会も最初は勢いがあるのですが、長い期間続くとマンネリ・疲弊してくるものです。
実はそれも想定しています。まず、最初は会員の想いを知りロータリーを学ぶという意味を強く出していくつもりです。
そして、皆さんがクラブ運営に慣れた頃に再度例会の開催について話し合う予定です。

さて、ロータリーをいろいろ語るなかで、
「ボランティア」と「奉仕」という言葉の違いについて私見を述べてみたいと思います。
ボランティアは自主性を重んじた個人の慈善活動ということになります。もちろん継続性のことは考えていません。
災害が発生したり、困窮とした人々への緊急支援的要素を意味する言葉だと感じています。
では「奉仕」はどうでしょうか。奉仕はいわゆる束縛を伴う活動であり、それには計画性が必要です。
事業を継続させるために中長期の戦略計画が必須のものとなります。

ロータリーは奉仕団体です。ならば、きちんとした事業活動計画を策定し、それに対し評論しさらに手を加えて再評価する手法をとっていくことが大変重要であると思います。
私達は「I serve」を実践し、それをきちんと組織がバックアップしていくべきだと思っています。
例えば奉仕というものの中に「今まで知り得た知識・知恵を無償で公開する」ことがあります。これは、モノや金ではありません。
知り得た知識(いわゆるノウハウ)を惜しみもなく社会や地域に提供することも、ひとつの奉仕になります。
さらに、コロナの影響を受けた社会的弱者の人達が孤立してしまう事への支援策としてどのような方法があるか、実はこれはモノや金では解決できないんですね。
クラブとして、会員による知恵・知識を集約して最適な支援策を提供していきたいと思っています。

本日の卓話は信州友愛ロータリークラブ会員であり長年のロータリー経験者である市川 誠さんにお願いします。
 

メークアップ&ニコニコボックス

下記の皆様よりニコニコボックスを頂きました。

信州友愛RC 市川誠君
「土屋様 卓話をお聞かせいただき ありがとうございました。 金児会長様 松本西南RC訪問 お疲れ様でした。 次年度PETS参加ご苦労様です。 」

信州友愛RC 金児進君
「土屋さん、卓話をありがとうございました。素晴らしい経験をされているので、ぜひクラブにも無償還元してくださいませ。 今週もニコボックスに協力させていただきます。 」

信州友愛RC 小池晃君
「土屋様、卓話ありがとうございました。熊本の懐かしい情景を思い出しました。」

信州友愛RC 乾みゆ紀君
「3月の暖かい日差しと、桜の開花に気持ちが明るくなります。新年度へ向けて気持ちを整えていきたいです。」

卓話

自己小伝

信州友愛ロータリークラブ 会員 市川 誠様
自己小伝
                      信州友愛ロータリークラブ 市川 誠
                                 2021、3月

 
皆さんこんにちは。日頃は いろいろとお世話になっております。
今回、金児会長様から 自己小伝を依頼されて、振り返るのは苦手ですが、自分のロータリーにおける半生を省みてみました。
 
私は1955年(終戦後10年まだ傷痍軍人の方々を松本市内で見かけた時代)の1月に安曇野の豊科に生まれました。
実家は 明治大正、”野口英世”が生存していた時代から続く安曇野で最初に出来た市川歯科医院です。
初代は旧堀金村田尻にある臼井家という旧家の出身です。
亡祖父、亡父、亡母、そして私が4台目の院長という事になります。
私の長男は既婚者で現在東京の医療法人でクリニックの院長をしており、一昨年男子を授かっています。次男は現在東京の大学歯学部に在籍する学生で間もなく病院実習が始まるようです。安曇野での私の後継者がどのようになるかは未定です。
私が小学校卒業時に書いた卒業文集に、私は「野口英世のように、科学者となり顕微鏡を使って世の中の人達の健康に役立つ仕事をしたい。」と書いていましたが、心で元々は、”ノーベル賞的医科学者”を目指していたようです。
私自身、1979年に大学歯学部卒業後、信州大学にある大学院医学研究科博士課程へ進学し、人体病理、外科病理、免疫病理を学び、病理解剖(病理解剖医)に始まり、光学顕微鏡や電子顕微鏡を使った病理診断と研究を行いました。博士論文の仕事は"唾液腺を使ったIII型アレルギー反応"について、実験病理学的に解析して、”博士(医学)”の学位を取得しました。
在学中は、国立松本病院や相澤病院で、大学院卒業後は、相澤病院と信大病院の中央検査部病理で更に外科病理診断学を研鑽して日本病理学会が認定する”病理専門医(病理医)”となりました。
日本病理学会では学位取得後、長年学術評議員を続け、昨年に終身”功労会員”となり記念徽章をいただきました。
外科病理診断学については現在も自己研鑽を続けています。
歯科の臨床医としては、病気になった歯を残すための”歯内療法専門医”、噛み合わせについての”日本顎咬合学会認定医”、歯科矯正学については TBSC東京中島矯正歯科”湯島塾Bord1”、顎関節症については”顎関節症改善医”、”国際顎頭蓋機能学会(ICCMO)認定医(Fellow)”などをいただきました。日進月歩の医学に終わりはないので、まだまだ自己研鑽が続いています。
 
さて、ロータリークラブと私の関係は、父があづみ野RCのチャーターメンバーだったことに始まります。 
1995年の7月に父が病没して、その年の10月に、ご縁があって、父にゆかりの方々のご紹介で、あづみ野RCへ”二世会員”として入会しました。
ですので、特にロータリークラブについて知識があったわけではなく、RCは自分にとっての”社交を学ぶ場”的に捉えていました。
入会当時のあづみ野RCは 会員数が60人近くあり、当時会員になっていた方々は、今までにどこかでお目にかかったことのある、”地域の有名人”の人々でした。
入会してしばらく、数年は”親睦委員”としてクラブの例会について学ぶ事がたくさんありました。 それこそ、クラブ例会に”I serve”する日々でした。 
例会場の国旗とロータリー旗の上げ下ろし、ロータリーソングのCD演奏等々、毎回会場を走り回る日々でした。とても”やりがい”のあった懐かしい思い出です。
時折の夜間例会では 木暮ガバナーはじめ、先輩諸氏とお酒を酌み交わして、様々な事を学びました。 それまで 病理学者として 学術畑をひたすら歩んできた私にとって、あづみ野RCは、本当に、社会について学ぶ窓口でした。
  さて、クラブ奉仕委員会には、親睦活動委員会、プログラム委員会、出席委員会、ニコボックス委員会、クラブ広報委員会、慶弔委員会、会員増強委員会などがあり、各ロータリークラブの屋台骨を構成しています。
各委員長は会長経験者や幹事が併任する場合もありますが、主な役割はそのクラブの会員の交流が円滑にできるようにする事だと思います。 通常はロータリークラブに入会して、まず学ぶ、ロータリークラブの入り口だと言える大切な部門です。
数年間クラブ奉仕委員会で過ごした後、私は、ある日、いきなりクラブの外の仕事へ出る事になりました。 それは、あづみ野クラブの”インターアクト委員長”という役割で、ロータリーでは”頼まれたら断らない”という大原則があり、それまでは”全力で職業奉仕を行い クラブの例会で楽しむ事”が私の”ロータリー観”でしたので、不安がいっぱいでした。
まず、自分とは遠く離れていた”インターアクトクラブとは何か”について学ぶ事から始まりました。 歴代のインターアクト委員長さんを、IA地区委員だった”ばんどこ”さんへ、夜間の臨時委員会を開きお招きして、それぞれのご経験談をお聞かせいただき、あづみ野RCがホストしている”南安曇農業高校インターアクトクラブ(IAC)”について学びました。
蓋を開けると、その年度までお世話になっていたインターアクトの顧問の先生が転勤となった年で、IACの生徒はそれまでの経験の延長で、主な活動は 雲南省農業学校の生徒を受け入れての国際交流、地区ロータリーが開催する青少年部門の各大会への参加、犀川河川敷の清掃、文化祭など学内での行事支援、などでした。
河川敷ではローターアクトの皆さんと あづみ野RCから少数の会員が参加していました。
まず、私は、RCインターアクト委員長を3年制とし、1年間は継承につとめて、翌年から新しいIAC部長のもと研究を重ねて、国際理解は従来に加え、アフガニスタンの中村哲医師が行うペシャワール会への支援がテーマとなって行きました。
後に 南農高校IACの創立20周年記念事業では 今は亡き中村哲先生にご来訪いただき記念講演会を挙行しました。アフガニスタンに農業用水路を建設して 平和な社会を築く、素晴らしい行動力を学ばせていただきました。
”インターアクトの目的”は「国際理解と地域での社会奉仕」ですが、”母と子の日本語学級”への支援なども加わり発展して行きました。現在では”子供食堂”にも協力しています。
クラブのインターアクト委員長を経験した後、2002年度から地区インターアクト委員として初めて”2600地区チーム”に入りました。
2002年インターアクト地区委員として初仕事は、IA海外研修派遣でハワイ島への出張でした。これは、この年の海外研修派遣で南農高校が団長校となったため、インターアクト活動でお世話になっていた顧問の先生から、是非一緒に行ってほしいと要望されて、派遣委員のあづみ野RCの会員とは別に、全額私費での参加となりました。
当時のインターアクト海外研修派遣は JTBが”商業ベース”で企画したもので、様々に改善すべき点を抱えていました。 帰国後のインターアクト委員会でその点を指摘したところ、研修の改革を行う事になり次年度開催に向けて準備していたところ、あの911テロから、アメリカが2003年3月20日からイラク戦争へ突入して行き、翌21日の海外研修派遣事前研修会に招集された生徒達を前にして、渡航の安全確保が難しいという理由から、ハワイ島研修が中止でなく、いきなり台湾の台北での研修へ振替る事になりました。
この経緯は、事前研修会当日、直前に 当時のインターアクト委員長、副委員長の専決で決められた事であり、なぜか既に出来上がっている行程表により、委員会の審議なしの見切り発車で、後に数回に渡る顧問教師の先生も一緒に加わった地区委員会を行って、台湾へ方向を変更する事になって行きました。
インターアクト海外研修派遣の目的の一つに”英語圏で英会話を体験する”という大きな前提があったのですが、残念ながら、それは失われてしまいました。
2003年3月の事前研修会のあの日、私は前年度のハワイ島研修を生徒達に伝えて、ハワイ研修の改善すべき点について、説明する役として会場に居り、報告はしたものの、台湾研修を推し進めようとしていた当時のIA副委員長から、”市川さんの幻のハワイ研修”と言われた事が、今でも脳裏に焼き付いています。
それから2011年度までの地区インターアクト海外派遣は、台湾での海外研修派遣として行われました。
奇しくも、2010年に地区インターアクト委員会の”御家騒動”で、あづみ野RCから出ていた当時のIA委員長が RCを退会するという事が起きました。
それで急遽、2010年当時に、あづみ野RCの会長を務めていた 前任IA地区委員でもあった私が、地区インターアクト委員会の”委員長代行”を引き受ける事となり、翌1月、 私が台北へ飛び、2011都筑年度に、台湾における最後のインターアクト海外研修派遣を、台湾在住の米山奨学生の協力のもと、私が団長となって行う事となりました。
翌2012年度は東日本大震災の復興支援として、岩手県の宮古商業高校と宮古市田老町の仮設住宅地区を主目的地としての研修を行いました。
2013年度は、海外研修の本来の姿を取り戻し、3月にオーストラリア連邦のシドニーで インターアクト海外研修派遣を行い、シドニーの高校生との交流が実現しました。
次2014年度は3月にハワイ州ホノルルでの海外研修派遣を行い、所期の目的は達成されました。
これが地区インターアクト委員会が団体として行った最後の海外研修派遣となりました。現在は各IAC毎にクラブ事業として海外研修が行われています。
インターアクターの個人による国際理解で、次に求められるのは、ロータリー交換留学生として”短期又は一年間の留学”による体験学習で、現在は関係する地区委員会と連携しているようです。
私は、インターアクト海外研修派遣を支えるために、かつてのインターアクトハワイ研修でお世話になった方々や、あづみ野RCでお世話した米山奨学生にお世話になり、時には、かつてのインターアクト顧問の英語科の先生と共に 海外へ直接足を運び、現地のRCを訪問して、様々に計画を立案して来ました。
振り返れば これも”I serve”かな、と思います。
その後、あづみ野RCでの私は”燃え尽きたように”衰退し、2020年度の6月に退会しました。
奇しくも退会する際に、あづみ野RC入会時にお世話になった会員も退会されて、その時に現在の信州友愛RCを紹介されて2020年6月末日に移籍する事になりました。
これもロータリークラブとの御縁である、と感謝しています。
思いつくままに書きました。
皆様、これからも どうぞよろしくお願い致します。
市川 誠